「天下の叢林(そうりん) 方広寺」
方広寺派 庶務部長
涌出宜雄
方広寺は臨済宗方広寺派の大本山で、創立は、応安四年(一三七一)(一説至徳元年・一三八四)、遠江の豪族、井伊家一族の奥山六郎次郎朝藤是栄居士が、先帝後醍醐天皇の遺霊の追薦と師恩に酬いるため、採薪の地、山谷五十有余町歩を喜捨、後醍醐天皇の第十一皇子、無文元選禅師がご開山です。
無文元選禅師は、十八歳の時、京都・建仁寺にて出家得度し、二十一歳で中国(当時の明)に渡り、福建省建寧府の高仰山大覚妙智寺の古梅正友禅師に就いて修行、その法を継ぎ、天台山方広寺等、中国の名刹を歴訪し帰国の途に就きます。
その折、玄界灘で嵐に遭いますが、一偉人の助けにより船は無事博多港に着きます。諸国を行脚しながら、各地に諸寺を建立し、ついに奥山の朝藤公に迎えられるのです。そして中国で立ち寄った天台山方広寺を彷彿とさせる景観であるため、この寺を、「深奥山方広萬壽禅寺(じんのうざんほうこうまんじゅぜんじ)」と名づけました。
禅師の徳を慕い、各地より数多の修行僧が参集し、禅の道場として天下の叢林となったのです。その修行僧の中に、あの嵐の海で禅師を救った一偉人が現れ、禅師の弟子となるのですが、「半ば僧に似て僧にあらず。神に似て神にあらず。そなたを半僧坊と名づく」と禅師自ら命名したのでした。世の人も「半僧坊」自らも「半僧坊」と呼び、共に修行に励みます。
禅師が六十八歳で遷化されると、半僧坊も、「我は禅師の法を護り、未来永劫この山を守護す。我を信ずるものを護り、諸願を満足せん」といって、忽然と姿を隠します。以来、半僧坊を如来の権化、「半僧坊大権現」としてお祀りしています。
また方広寺は明治十四年の大火に見舞われた折、「七尊菩薩堂」と半僧坊をお祀りする祠が焼け残っておりますので、多くの方々から「海上安全」「火伏せ」や「厄難消除」の神様として全国各地から多くの信者がお参りにこられます。
方広寺のご本尊は、釈迦如来、脇侍仏は文殊菩薩、普賢菩薩で、平成二十六年に国の重要文化財に指定されました。院派の最高傑作で、水戸光圀公と深い因縁のある三尊仏です。
古くから「姥懐(うばがふところ)」と言われ、老松古杉に囲まれた方広寺に是非ともご参詣ください。
臨済宗大本山方広寺・奥山半僧坊総本殿
静岡県浜松市北区引佐町1577-1
TEL:053-543-0003/FAX:053-543-0249
【方広寺サイト】
【奥山半僧坊サイト】