公益財団法人「德川記念財団」は平成15年(2003年)江戸開府400年の年に、德川宗家(将軍家)に伝来した歴史資料を公のものとして一括して永久保存することを主たる目的として設立された。
それ以来、所蔵する資料の研究と特別展示、日本近世研究への奨励活動(德川賞、德川奨励賞の設定)各種講座やコンクールの開催に加え、日本各地の博物館で開かれる展覧会への協力、印刷物・映像への協力等を積極的におこなっている。
理事長の德川十八代当主の德川恒孝【つねなり】様は「静岡県人会」の名誉会長でもある。
「静岡県人会」は、十六代当主德川家達【いえさと】公によって設立され、百十余年の歴史ある会として現在にいたっています。
■東照大権現像(霊夢)
絹本着色
縦176.0 横88.3
江戸時代 元和9年(1623)
☆家康画像には家光が夢に見た家康の像を描かせた「霊夢像」と呼ばれる特殊な一群の作例がある。絵師は主に狩野探幽である。現在確認される家康画像は百点を越えるといわれ、一人の人物の肖像画としては最も多く伝存する。
家光は、幕府機構の整備や将軍権力の強化をめざし、大名に対して断固たる姿勢を示す一方で、たびたび病に襲われ、世継ぎを得るのも遅かった。また父母が弟忠長を偏愛し、家光の地位を脅かした際、祖父家康が家光の継嗣としての立場を明言し、将軍になることが定まった。そうした状況を重く受け止め、偉大なる祖父・家康への思慕と憧憬を強く抱いたのであろうか。家康を尊崇し、神格化に努めるとともに、夢に現れた家康の姿を度々絵師に描かせた。
本幅に付随する延宝三年(一六七五)正月十七日付の添状には、元和九年春に、家光が夢で見たお告げを春日局に調査するように内密に指示し、春日局が深く帰依していた上野寛永寺の覚音房という僧侶に調べさせたところ、川越の仙波にお告げの東照大権現像があることがわかった。覚音房は神のお告げが確かなことであったと言上し、献上したのがこの画像であるとの旨が記されている。箱書に「東照大権現御圖像 大僧正 上」とある本像は、他の霊夢像とは像容が異なり、いわゆる「東照大権現像」の姿で描かれている。
■天璋院所用 小袖(萌黄縮緬地雪持竹雀文様牡丹紋付)
丈175.0 裄61.0
☆蝶と藤襷を織りだした萌黄の紋縮緬地の腰から下に、雪がつもった竹林を飛び交う雀を刺繍した小袖。竹林の黒糸と雪の白糸の色の組み合わせが、明快な印象を与える。天璋院の人柄を偲ばせるような、凛々しくもすっきりとした意匠である。近衛家の牡丹紋を後身頃に三ヶ所、全身頃に二ヶ所、金糸駒繍で表している。
■重要文化財 唐物肩衝茶入 銘 初花
高8.4 口径4.6 胴径8.0 底径4.7
南宋~元時代 13~14世紀
☆古来唐物肩衝の白眉とされる茶入で、大名物として柳営御物第一の名宝と珍重された。銘「初花」の命名は、足利義政(一四三六~九〇)によると伝えられるが、由来は不詳。『大正名器鑑』に「蓋し其形状釉色優美妍麗にして天下の春に魁する初番の名花の如しとの謂なるべし」とある。伝来は鳥居引拙から大文字屋疋田栄甫【ひきたえいほ】所有の後、織田信長が召し上げて所有、嫡子信忠に譲られたが、本能寺の変の後松平念誓(親宅【ちかいえ】)の手に渡り、德川家康に献じられた。家康はこれを豊臣秀吉に柴田勝家との賤ヶ嶽での戦の戦勝祝いとして進呈し、秀吉は幾多の茶会にこれを用いた。秀吉没後の伝来については定かではないが、再び家康の所有となり、大坂夏の陣の戦功により松平忠直に与えられ、その後忠直の長子光長に伝わり、元禄十一年(一六九八)、光長の養嗣子である松平備前守より德川将軍家に献上され、以降德川宗家の重宝として代々伝えられてきた。
公益財団法人 德川記念財団ホームページ
http://www.tokugawa.ne.jp