この名も知れぬ海辺の寒村が歴史に多少顔を出したのは、豊臣水軍の下田城攻めのときであろう。
1590年、伊豆の地侍中心の北条勢600名が、14,000名の豊臣勢を相手に50日間見事に奮闘し、最後は力尽き城をあけ渡し離散した。
この史跡としては、天守跡と空堀のみが下田公園の山頂にひっそり残っているのみである。
江戸が開府すると、下田は風待ち港として海上交通の要所となり、1616年には幕府直轄領として下田奉行がおかれた。
江戸往来の船は下田の船番所(海の関所)で積み荷の検査を受けねばならず、年間3,000隻の船が出入りした。
船は風の吹き具合で集中的に入港し順風を待つたので、花柳界をはじめ町は大いににぎわった。下田旧町内の町並みはこの当時の縄張りをほぼ残している。
幕末になると下田は歴史の脚光を浴びることになる。1854年ペリー提督が来航し日米和親条約が締結され、1856年には初の米国総領事館が設置され開国の町となる。
ペリーが帰国した4か月後、1854年12月にはロシヤのプチャーチン提督が入港。
不幸にして日露通商条約の交渉中に突如「安政の大津波」が襲い、下田の町は壊滅状況となり、ロシヤ艦も乗組員多数が死傷し艦も最終的には沈没の被害を受けた。
毎年5月中旬には下田で、8月にはペリー生誕地の米国ニューポート市で黒船祭が開催される。毎年両市の市民が訪問参加しあい、田舎町としては考えられない民間の草の根外交が根付いている。
一方ロシヤ艦の救助にあたったことから、出港地のクロンシュタット軍港と友好都市となり、やはり市民レベルの交流が続いている。
このように下田は米ロ両国と特別な関係を続けている珍しい田舎町である。
また町民の心意気に火がつくのが、毎年8月の通称「太鼓祭り」である。
若い衆の担ぐ「喧嘩みこし」とも呼ばれる木組みのやぐらが勇ましく練り歩く。これがぶつかり合いけが人が出ることも珍しくない。
続く本神輿のあとからは各町内から子供に引かれて繰り出される太鼓台が10数台続く。
それぞれ綺麗どころの奏でる三味線や子供の奏でる笛に合わせ勇壮な太鼓打ちが行われ、2日間昼夜を問わず町中を練り歩く。
これは徳川勢の大阪入城の太鼓行列を模したものとされている。
ところで、現在の下田は商店街もシャッター通りとなりつつあるし、観光にも昔の勢いがない。出身者の私も切歯扼腕している。
そこで観光PRを少々!!
下田には歴史探訪の旅や祭り見物のほかにも、恵まれた気候と自然を背景にして色々な楽しみ方がある。
1月は須崎の水仙自生地で花の香りの中で黒潮の絶景を楽しみ、
2月には河津さくらもさることながら、足を伸ばして下賀茂温泉の「みなみさくら」見物も良い。青野川の両岸に続く数キロの桜並木は、夜はライトアップされ多数のLEDランプが川に流されると地上の天の川が現れる。
4月は西伊豆・松崎町の6キロも続くソメイヨシノの壮観な桜並木が見事。一方、反対側の広大な農地には種々の草花がびっしりと植えられ、それが日々変化しながら咲き乱れる。
梅雨時には、下田城址のある下田公園を訪れるのがよい。
ここはおそらく日本最大のアジサイ公園で全山に各種アジサイが咲き誇る。
夏といえば海。伊豆の海岸線は白浜海岸から南は真っ白な砂浜となり、海水の透明度はどこにも負けない。下田市を中心に南北に10箇所以上の海水浴場が点在する。
秋から冬はやはり温泉と食事。金目鯛、アワビ、サザエ、イセエビなど近海の海の幸を楽しめるし、メロン、みかん、山菜、さらには猪肉など山の幸にも恵まれている。
車で来られた方は生産者直売店で、新鮮な野菜や果物をたっぷり買いこむのもよい。温泉も単純泉から塩温泉まで様々な源泉が各地に広がっている。
海外旅行も結構だが日本にはこんないいところがあるのだ。
県人会の皆さん、ぜひとも下田に“来てくらっせえ!”
相談役 鈴木啓介
◎「黒船祭」 平成25年5月17日(金)・18日(土)・19日(日)
◎「下田太鼓祭り」 平成25年8月14日(水)・15日(木)