今回は、德川宗家 十八代目当主であり、徳川記念財団理事長の徳川恒孝様です。静岡県人会名誉会長でも、あらせられます。
静岡の想い出
德川恒孝
私と静岡の出会いは昭和十九年(もう六七年も前のことです)に当時の駿東郡二の岡村、御殿場駅から約一里の箱根山麓に疎開した時でした。戦前御殿場は軽井沢や野尻湖などに並ぶ別荘地で、秩父宮様が御療養中でした。全くの食料不足で栄養失調状態の腕白坊主達に与える食料に本当に苦労をしていた母は、着物との物々交換や、宮家から貴重なバターなどを分けて頂くことで繋いでいたようですが、まだ幼稚園児だった私の記憶は乙女峠に登ったことや、朝焼け、夕焼けの富士山の綺麗だったこと。青空に幾筋もついたB二九爆撃機の飛行機雲。キャンプ村と呼ばれていた山裾の原っぱで摘み草をしたこと。イナゴを沢山捕って大切な食料にしたこと。冬には大きな霜焼けが頬に出来たこと等で、どちらかと言えば楽しいことばかりです。
次の静岡の記憶はそれから六年後。学習院初等科の沼津遊泳場の夏休水泳教錬でした。男の子は全員赤い褌(ふんどし)でした。当時は物資がまだ不足していた終戦後でしたから、赤い晒しなどはなかなか手に入らず、母が赤い染料で染めてくれましたが、何時までも赤い色が出るので閉口したものです。
その後、私は会津松平家から母の実家である徳川の家に養子に入ることになり、中学の時にそのことを報告する為に松平の父に連れられて久能山東照宮に参拝に行きました。まだロープウェイが出来る前のことで、これが静岡訪問の三回目になります。
大学時代に二年間を英国で過ごし、帰国して一年たった一九六三年二月に祖父(養父)で徳川家十七代の徳川家正が亡くなりましたので、その年から十八代当主として毎年四月十七日の東照宮例大祭に装束を着けて参拝し、今年で丁度五〇年目になりました。ロープウェイ完成の御蔭で大変楽にはなりましたが、この装束を着けて社務所から拝殿へ、その後御墓所へと登り下りするのは、不慣れな私にはなかなか大変で、裾を踏んで袴がずり落ちて来たりするのには閉口したものです。
毎年の東照宮参拝以外にも牧野ヶ原開拓に当たった幕臣達の慰霊祭に出席したり、静岡市、浜松市で德川記念財団主催の展覧会を開催したり、最近は「世界お茶祭り」や、静岡商工会議所の会合等にも出席する為に益々静岡へ行く機会が増えました。その御蔭もあって静岡県の様子も少しずつ解り始めていますが、これからはもうすこし山側を訪れたいと思っています。
三年後の二〇一六年は家康公が駿府城で亡くなられてから四百年になりますが、その祭事は前年に行われますからもうあと二年で四百年祭になります。久能山東照宮も国宝の指定を受け、神殿の修復も無事に完了して創建当時の美しい輝きを取り戻し、今年の四月十七日の例大祭には社殿に入りきれない多くの参拝者で溢れかえりました。
太平洋に向かって開かれた静岡県の明るい、伸び伸びとした、大らかな豊かさは本当に素晴らしいものです。この美しい静岡を愛する人々の力が、日本の温かく繊細な文明を守りながら、更に新しい日本をつくる基盤となっていって欲しいと何時も考えています。