特集

温故知新
2014/01/06掲載
牧之原開拓幕臣子孫の会と茶園

 

牧之原開拓幕臣子孫の会と茶園

牧之原開拓幕臣子孫の会

牧之原開拓幕臣子孫の会



「牧之原開拓幕臣子孫の会」が、牧之原茶園近くの德川家縁の寺・洞善院において、隔年で開催されている。今年も、晩秋の穏やかな陽射しに恵まれて第21回が開催された。牧之原に留まる子孫は数戸であるが、東京始め近隣に散らばった子孫達が集り、祖先の労を思い、慰霊するのである。德川宗家、德川慶喜家からのご臨席、勝海舟家、山岡鉄舟家のご子孫のご臨席も賜っている。今年は、江戸幕府最後の将軍・德川慶喜公没後100年にあたり、静岡市美術館で記念展覧会を鑑賞して散会となった。
 慶応4年(1868年)、水戸に謹慎していた慶喜公は、側近および「精鋭隊」等に護衛されて、銚子の羽崎港から、幕府軍艦・蟠龍丸に乗船し、7日間をかけ、榎本艦隊に見守られるなか清水港に上陸、駿府の宝台院に移られた。精鋭隊は久能の地で公の御安泰を見届けて後、名を「新番組」と改め、德川家達公の静岡藩に属した。
「新番組」の士族250戸は明治2年7月(1869年)に、勝海舟の尽力により、大井川下流域牧之原台地に約1500町歩(約15平方キロメートル)の土地を家達公から賜り、「牧之原開墾方」という職名の靜岡藩役人として、名剣士として知られていた中条景昭を隊長、大草高重を副隊長として、牧之原台地に移住した。



隊長・中条景昭像と開拓記念碑

隊長・中条景昭像と開拓記念碑




資料


 当時、「一望千里の荒れ野、磽确不毛、水路に乏しく、民捨てて省みざること数百年」と記録されている大変な土地であった。貿易への茶の有利性を感じていた勝海舟の提言、大草高重は献茶使としての経験と宇治で茶栽培・製茶学んだことがあったので、茶の栽培を始めた。刀を鍬に替え、勝海舟の他、山岡鉄舟、大久保利通、松岡萬の支援を得て、艱難困苦の開墾の末、4年後には、茶の初生産にこぎつけるという偉業を遂げている。

 しかし、彼らは、明治4年の廃藩置県により、その職・俸禄・俸禄米も失ったうえ、静岡藩からの開墾費も廃止され、政府からの家禄奉還金、わずかな自己蓄えでの、一層過酷な生活を余儀なくされていたのであった。牧之原士族開墾地絵図面には、詳細な開墾者の名が記録されている。(筆者の先祖榊原政陳は大草隊長と並ぶ19町余を開墾)開墾の合間にも、武士としての嗜みを捨てず、剣術・弓術などの訓練の記録が残されている。当然、近隣の農民の協力も必要であり、交流、時にはもめ事あったようである。一帯は、近隣の村々の入会地・秣場であったが、幕臣入植により、農民達は突然に権利を失ったのであるから当然不満があったであろう。現在、この一部は静岡空港になっている。屋敷の周りには、激しい遠州灘からの空っ風や猪・狐などを防ぐためであろうか「土居」という高さ2メートル弱の土塁が築かれていて、今も名残がある。



資料

蓬莱橋蓬莱橋



 明治12年には、開拓の偉業・功績に対し、明治天皇か等金千円を下賜された。この年に蓬莱橋(牧之原から見たら島田宿は蓬莱の地だったのだろうか)が完成し、大井川東岸島田宿への交通が楽になり、生活も変化したであろうが、入植士族は半減している。時経て、明治末期には村長となる者、藪北茶の栽培を始める者などが輩出している。手摘み、蒸籠蒸し、焙炉上での人手乾燥から茶摘みも製茶も自動機械の時代へと移ったが、茶園を守り続けた子孫達、牧之原に係わった多くの人材、茶業関係者の努力により、牧之原は日本一の茶畑として、年々歳々綠の芽を繁らせている。



牧之原開拓幕臣子孫の会

牧之原開拓幕臣子孫の会



《参考文献:大石貞男「牧之原開拓史考」農文協、金谷郷土史研究会「牧之原士族開墾地絵図面」、牧之原開拓幕臣子孫の会会報12号、16号》

 

 

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